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  <title>iddy.jp - RSS feeds by mikanoff</title> 
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  <description>RSS feeds by mikanoff hosted at http://iddy.jp/</description>
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    <title>秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 (中公新書)</title> 
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    <![CDATA[
    

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    <link>http://booklog.jp/users/mikanoff/archives/4121021460</link> 
    <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 19:37:13 +0900</pubDate>
   </item>
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    <title>戦国期の堀見つかる、小田原城址公園で　本丸防御か/神奈川
2011年12月22日
1.新たに発見された戦国時代の堀...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://28.media.tumblr.com/tumblr_ly0w7uSQEP1qz86ubo1_500.jpg"/><br/> <br/><img src="http://28.media.tumblr.com/tumblr_ly0w7uSQEP1qz86ubo2_400.jpg"/><br/> <br/><h1>戦国期の堀見つかる、小田原城址公園で　本丸防御か/神奈川</h1>
<div>2011年12月22日</div>
<p>1.新たに発見された戦国時代の堀<br/> 2.鉄門への階段跡も確認された</p>
<p>小田原市が２０１１年度から整備を始めた小田原城址公園（同市城内）の「御用（ごよう）米曲輪（まいくるわ）」跡で、戦国時代とみられる堀が発見され た。北条氏時代から一貫して米の備蓄場所と考えられてきたが、市文化財課は「本丸の防御を強化するために堀で一部を固めた時期もあったのではないか」と推 察している。<br/><br/> 曲輪とは城内の区画のことで、江戸幕府へ送る米を御用米と呼んだ。整地された広さ約１万８千平方メートルの用地に６棟の蔵を建設、最大で約４千俵を保管した。重要な場所として周囲に土塁が築かれ、厳重に管理されていた。<br/><br/> ただ、これまでの文献調査では、江戸期以前、北条氏が統治していた１５００年代の城内の様子はよく分かっていない。御用米曲輪の歴史も解明に至っていないのが現状という。<br/><br/> それだけに、今回確認された堀は「曲輪の変遷を考える上で貴重な発見になる」（同課）という。堀は本丸下の斜面付近で多数発見された。深さ７～８メートル、幅６メートルと規模の比較的大きなものもある。<br/><br/> 戦国時代、武田信玄がこの位置まで攻め込んだとの史実もあり、堀の整備を優先させる必要性はあった。その後、盛り土がされ、現在のような円形に近い形状になった可能性もある。<br/><br/> また、深い地層の中から土器の「かわらけ」が多数出土し、祭祀（さいし）の会場になった時期もあったとみられる。<br/><br/> 本丸にあったとされる鉄門へ通じる階段の跡のような石積みも発見され、調査が続いている。<br/><br/> 御用米曲輪跡は１９４９年に野球場が建設され、その後はイベント会場や臨時駐車場として使われた。園内が国指定史跡になっているため、文化庁の指導で今 春閉鎖され、市が３カ年計画で史跡整備に着手した。周辺は、立派な石垣が築かれた南の正面側と違って戦国時代の面影が残る区画とされている。</p>
<p>(<a href="http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1112220011/">戦国期の堀見つかる、小田原城址公園で　本丸防御か/神奈川：ローカルニュース : ニュース : カナロコ — 神奈川新聞から</a>)</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/16092789792</link> 
    <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 20:59:54 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>恭仁宮と同じ東西対称の内裏構造　紫香楽宮跡
滋賀県甲賀市教委は１８日、同市信楽町の紫香楽宮跡（宮町遺跡）で、大規模な掘立柱建物跡が...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://25.media.tumblr.com/tumblr_ly0vlotaDw1qz86ubo1_250.jpg"/><br/><br/><h1>恭仁宮と同じ東西対称の内裏構造　紫香楽宮跡</h1>
<p>滋賀県甲賀市教委は１８日、同市信楽町の紫香楽宮跡（宮町遺跡）で、大規模な掘立柱建物跡が見つかった、と発表した。天皇が住み、祭祀（さいし） を行った「内裏正殿」の可能性が高く、東西に２棟の正殿を持つ内裏構造だったことが判明。同様の内裏は恭仁宮跡（木津川市）しか例がなく、市教委は「内裏 構造が分かったのは初めて。紫香楽宮の特性を考える上で貴重な発見」としている。</p>
<p>紫香楽宮跡では１０年前の調査で、政治の中心区画「朝堂」北西部から大型建物跡が出土。主要建物にもかかわらず遺跡の中軸線から西に外れていたため、東からも建物が見つかる可能性が考えられていた。</p>
<p>今回は朝堂の北東部から、東西２４・９メートル、南北１４・８メートルの掘立柱建物跡が出土した。西側の建物跡と規模や構造が近いため、市教委は、一対と して建築されたと判断。一般的に朝堂北側に内裏を置くことなどから、「東西に二つの建物が並立する内裏構造が解明できた」としている。</p>
<p>出土した建物跡について、史跡紫香楽宮跡整備活用検討委の黒崎直副委員長（富山大名誉教授）は「規模や構造から内裏正殿の可能性が高い。紫香楽宮調査の中で、朝堂跡出土などに続く重要な成果」と説明した。</p>
<p>東西対称の構造を持つ内裏は、過去に恭仁宮で確認され、今回が２例目。二つの宮はともに聖武天皇によって築かれ、恭仁宮は７４０～７４４年に、紫香楽宮は ７４５年の一時期、都が置かれた。当時は藤原氏と反藤原氏の権力争いが行われ、黒崎副委員長は「恭仁宮では、こうした対立の影響で内裏を二つに分けたとの 説もある。紫香楽宮でも同様の構造を持つことが分かり、より研究が進むのでは」としている。</p>
<p>現地説明会は２２日午前１０時と午後１時半から行う。問い合わせは甲賀市教委ＴＥＬ０７４８（８６）８０２６。</p>
<p class="timeStamp">【 2012年01月18日 23時10分 】</p>
<p> (<a href="http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120118000128">恭仁宮と同じ東西対称の内裏構造　紫香楽宮跡 : 京都新聞</a>から)</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/16091954176</link> 
    <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 20:46:00 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>聖武天皇の住まいか　２棟の建物跡出土　滋賀・宮町遺跡
奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮（しがらきのみや）跡とされる滋賀県甲賀市...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://26.media.tumblr.com/tumblr_ly0v2bZIGf1qz86ubo1_500.jpg"/><br/> <br/><img src="http://28.media.tumblr.com/tumblr_ly0v2bZIGf1qz86ubo2_500.jpg"/><br/> <br/><img src="http://24.media.tumblr.com/tumblr_ly0v2bZIGf1qz86ubo3_500.jpg"/><br/> <br/><img src="http://26.media.tumblr.com/tumblr_ly0v2bZIGf1qz86ubo4_500.jpg"/><br/> <br/><img src="http://24.media.tumblr.com/tumblr_ly0v2bZIGf1qz86ubo5_500.jpg"/><br/> <br/><h1>聖武天皇の住まいか　２棟の建物跡出土　滋賀・宮町遺跡</h1>
<p>奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮（しがらきのみや）跡とされる滋賀県甲賀市信楽町の宮町遺跡（国史跡）で、天皇の住まいだった「内裏」とみら れる掘っ立て柱建物跡が出土した。市教委が１８日発表した。同規模の大型建物２棟が東西に並び立つ特異な構造で、聖武天皇と先帝・元正天皇の内裏として使 われた可能性がある。</p>
<p>市教委は昨年９月から、遺跡の中心区画にあり、政務を執り行う「朝堂」跡の北側約５００平方メートルを調査。南北方向に６列並んだ柱穴（一辺１．３～１．５メートル）が計２８個出土し、幅２４．９メートル、奥行き１４．８メートルの大型建物跡と判断した。</p>
<p>その西側では、２００１～０２年度の調査で同規模の建物跡が出土している。当初は、朝堂の中軸線上（真北）に位置していなかったため、内裏とは別の施設の可能性が指摘されていたが、今回の建物の発掘で、２棟一対の内裏だったことがほぼ裏付けられた。</p>
<p><small>1.紫香楽宮のイメージ図。中央の朝堂の左上方に内裏が２棟並ぶ＝甲賀市教委作成<br/>2.</small><small>紫香楽宮のイメージ図。中央の朝堂の奥に内裏が２棟並ぶ＝甲賀市教委作成<br/>3.</small><small>内裏とみられる大型建物のイメージ図＝甲賀市教委作成<br/>4.</small><small>紫香楽宮の内裏とみられる大型建物跡＝１８日、滋賀県甲賀市信楽町、矢木隆晴撮影<br/>5.</small><small>紫香楽宮の内裏とみられる大型建物跡＝滋賀県甲賀市、朝日新聞社ヘリから、伊藤恵里奈撮影</small></p>
<p>(<a href="http://www.asahi.com/culture/update/0118/OSK201201180091.html">asahi.com（朝日新聞社）：聖武天皇の住まいか　２棟の建物跡出土　滋賀・宮町遺跡 - 文化</a>から)</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/16091243501</link> 
    <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 20:34:59 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>戦国時代の足利将軍 (歴史文化ライブラリー)</title> 
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    <![CDATA[
    

<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51B5iwkKP9L._SL160_.jpg" />
  
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    <link>http://booklog.jp/users/mikanoff/archives/4642057234</link> 
    <pubDate>Tue, 27 Dec 2011 20:50:27 +0900</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>戦国時代の料理再現　藍住町教委、３月シンポで披露
藍住町教育委員会は、戦国時代の武将・三好長慶の息子・義興が当時の将軍を京都でもて...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://29.media.tumblr.com/tumblr_lwtqhsRAet1qz86ubo1_250.jpg"/><br/><br/><h1>戦国時代の料理再現　藍住町教委、３月シンポで披露</h1>
<p>藍住町教育委員会は、戦国時代の武将・三好長慶の息子・義興が当時の将軍を京都でもてなした際の料理の再現に取り組んでいる。三好氏の歴史や当時の状況を より多くの人に知ってもらうのが狙いで、将来的には、三好氏が居城とした勝瑞城館（同町）などの遺跡見学に訪れた人らに味わってもらう。２０１２年３月に 開く勝瑞城シンポジウムで初披露する。</p>
<p>再現するのは１５６１（永禄４）年に京都の三好邸で室町幕府の将軍足利義輝をもてなした際の料理。実際は数品ずつの料理を乗せた２６膳が出されたが、このうち本膳料理と呼ばれる７膳と菓子の膳の約４０品の再現に取り組む。</p>
<p>当時の料理の記録が残る文献を参考に、同町奥野の料理店「吉野屋」の大塚計次さん（５５）に調理を依頼。盛り付けや調理法は当時の食文化を研究する元別府大学短期大学部教授の江後迪子さん（７７）＝大分県＝に監修してもらう。</p>
<p>大塚さんは９月から、ウズラやシャモ、クジラ、サケといった食材集めを開始。調味料は当時手に入らなかった砂糖やしょうゆに代わり、はちみつやみそのたまりを使い、試作を続けている。</p>
<p>１０日には７膳の３２品を江後さんや町教委職員らが試食し、盛り付け方や味付けの改良点を話し合った。江後さんは「これだけの料理を準備するのは大変だったと思う。本格的なものができそう」と話した。</p>
<p>シンポジウムは１２年３月１０日の予定。来秋の国民文化祭では来場者に提供することも検討している。その後は厳選した数品を一つの膳にまとめ、吉野屋のメニューとして町を訪れた歴史家や観光客らに味わってもらう考えだ。</p>
<p>【写真説明】戦国時代に三好義興が将軍をもてなした料理の試作品＝藍住町の吉野屋</p>
<p> (<a href="http://www.topics.or.jp/localNews/news/2011/12/2011_132443028263.html">戦国時代の料理再現　藍住町教委、３月シンポで披露 - 徳島新聞社</a>から)</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/14818960043</link> 
    <pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:39:00 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>長宗我部元親の書状発見される</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <p><span class="font_title"></span><span class="font_666666">2011年12月17日09時18分</span> 戦国大名・長宗我部元親（１５３９～９９年）のこれまで知られていなかった書状が見つかり、このほど県が購入した。南国市岡豊町の 県立歴史民俗資料館が１６日に発表。四国平定に向け、同盟関係にあった南予の土豪に宛てたもので、元親の外交戦略や伊予での苦戦が伝わる内容。来年１月２ 日から期間限定で一般公開する。 <br/> 書状は縦２９cm、横４５cm。所蔵していた宮城県の個人が東日本大震災で被災したことなどから同館に売却を相談。野本亮・同館学芸員が鑑定し、新資料と確認した。 <br/> 日付は７月２８日。年号の記載はないが、花押（かおう）などから、同館は１５８４（天正１２）年と推測。阿波、讃岐をほぼ平定し、伊予の河野氏に対抗していた時期に当たる。 <br/> 喜多郡平郷（愛媛県大洲市）の小土豪と推測される平氏宛て。平氏ら地域の土豪らをまとめていた武将・曽根宣高は、元親と同盟関係にあった。 <br/> 書面には、土佐方の伊予兵が喜多郡内の田所城を攻めたが、手違いで撤退した。宣高と相談して計略を練るように―と曽根氏への伝達を求め、伊予侵略の指揮を執っていた元親の重臣・久武彦七（親直）を使者として遣わす旨が書かれている。 <br/> さらに、周辺の地侍らの動向も伝えるようにと追記。格下の土豪にも丁重な書状を直接送っていることから、野本学芸員は「弱小勢力にも心を砕き、仲間を作ろうとした元親の外交戦略が分かる」と指摘する。 <br/> また、土佐勢が直接戦闘に加わらず、味方の伊予兵を激励して巧みに動かしていたことや、天正１２年夏に南予の喜多郡までしか勢力を伸ばしていな かった状況もうかがえる。「土佐物語」などの通説では１３年春、河野氏を降伏させ四国を平定したとされてきたが、研究者らの間で近年支持されている元親の 〝四国非統一説〟を考える上でも参考になりそうだ。 <br/> 同館は書状を１月２日から１５日まで一般公開し、野本学芸員が解説も行う。 </p>
    ]]>
    </description>
    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/14818857247</link> 
    <pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:36:00 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>膏肓記 蘭奢待の記事</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <a href="http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-1132.html">膏肓記 蘭奢待の記事</a>: <p>読売新聞に載っていた<a href="http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20111208-OYT8T01264.htm" title="この記事" target="_blank">この記事</a>。<br/><br/>この書状は日付から見て、おそらく「森川文書」で、蘭奢待切り取りの関連史料として『大日本史料』10-21に収録されている。<br/><br/>せっかく貴重な史料なのに、見出しの付け方が扇情的で先入観を招きますな。「所業」って、あまりいいイメージでないことは明らか。<br/><br/>書状にも書かれているように、信長はただ蘭奢待を見たいと申し入れただけじゃないの。しかも、書状中に「叡慮別儀なく候」とある。つまり、正親町天皇が切り取りOKだと言っているのです。<br/>それのどこが「所業」になるのかな？　もう少し勉強してほしいな。蘭奢待切り取りの一件、やはり先入観が強いね。<br/><br/>記   事中にある書状の差出人「実澄」を東大寺の僧侶と推定しているが、これは明らかに公家の三条西実澄（権大納言）だと思うよ。実澄は信長の蘭奢待切り取りが   あった天正2年（1574）3月から10カ月後の12月に実枝（さねき）に改名している。こちらの名前のほうが有名。したがって、この書状の年次は天正2  年だとわかる。<br/><br/>宛所は東大寺の西室院。史料写真にある「小童   千世保丸」というのが実澄の子どもで、この時期、西室院に入部していた。尚々書冒頭にある「別当幼少」を指している。これは東大寺の別当が当時空席だった   けれど、蘭奢待切り取りという一大イベントを執りおこなうためにはやはり東大寺の代表である別当が必要なので、便宜的に千世保丸が別当に補任されたことを  示している。<br/><br/>なお、尚々書にある「飛鳥羽林」は飛鳥井雅敦ですね。天正2年時点で28歳。正四位下で近衛左中将。「羽林」は近衛府の唐名なので、近衛左中将はピタリである。<br/><br/>すでに『大日本史料』に収録されている史料だけど、原文書の所有者が名乗り出たということのようです。<br/><br/>余計なことかもしれませんが、記事末尾に鳩居堂の屋上から、信長が最期を遂げた本能寺の境内が見えたと書いてあるけど、寺町から見えるのは現・本能寺ですよね。しかも、信長が自刃した本能寺は跡だけで境内はないし。ちょっと寒いかも。<br/><br/>信長の蘭奢待切り取りの一件で、現在、もっともすぐれた論文は、<br/><br/><span>金子拓「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」　『国史学』196号　2008年</span><br/><br/>だと思います。関心のある方は参照して下さい。<br/><br/>ちなみに、拙著『織田信長』（新人物往来社）でも、蘭奢待一件を少し詳しく解説しています。<a href="http://www.jinbutsu.co.jp/detail/index.php?id=9784404040732" title="ここ" target="_blank">ここ</a>です。最後は宣伝でした（笑）。</p>
    ]]>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/13976668916</link> 
    <pubDate>Fri, 09 Dec 2011 14:21:45 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>蘭奢待切り取り寺の一大事
東大寺の僧　信長所業記す

信長の蘭奢待切り取りを伝える手紙と熊谷さん（京都市中京区で）

手紙の冒頭部...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://24.media.tumblr.com/tumblr_lvy9unYPCI1qz86ubo1_400.jpg"/><br/><br/><h1>蘭奢待切り取り寺の一大事</h1>
<h2>東大寺の僧　信長所業記す</h2>
<div class="box-r">
<div class="photo-cap">信長の蘭奢待切り取りを伝える手紙と熊谷さん（京都市中京区で）</div>
<div><img height="10" src="http://www.yomiuri.co.jp/g/d.gif" width="1"/></div>
<div class="photo-cap">手紙の冒頭部分。中央上に「信長」の文字がある</div>
</div>
<p>奈良市の奈良国立博物館で１１月１４日まで開かれた「第６３回正倉院展」では、織田信長らが切り取った天下の名香「黄熟香(おうじゅくこう)（通 称・蘭奢待(らんじゃたい)）」が注目を集めた。１７日間の会期が終わりに近づいた頃、読売新聞奈良支局に京都から電話があった。「ゆかりの手紙があるの で見に来ませんか」。興味津々で取材に出かけた。（関口和哉）</p>
<p>電話してくれたのは、１６６３年創業という香製造・販売の老舗「鳩居堂(きゅうきょどう)」の役員熊谷(くまがい)純三さん（６８）。観光客でにぎわう京都市中京区・寺町通に面した店の奥で、表装してある手紙を見せてもらった。</p>
<p>手紙は、「実澄」という東大寺の僧侶とみられる人物が、信長が蘭奢待を切り取った経緯を「門徒」に知らせる内容という。</p>
<p>日付は信長が切り取った１５７４年３月２８日で、寺を揺るがす大事件だったことがうかがえる。「就信長南都下向之儀　蘭奢待拝見之望被申入之処（信長が南都に来て蘭奢待を見たいと申し込んできた）」などと書かれ、当時の東大寺の別当が幼少だったこともつづられている。</p>
<p>熊谷さんによると、鳩居堂の資料室に他の文書とともに保管されてきたが、入手の時期や経緯は不明で、正倉院展に蘭奢待が出展されたのをきっかけ に、改めて内容を調べたのだという。「蘭奢待は時の権力者が求めた香の象徴。こうした史料も大事に後世に伝えていきたい」と語る。</p>
<p>信長が蘭奢待を切り取ったという記録は、当時の東大寺の僧侶が書いた「天正二年截香(せっこう)記」に詳しく、千利休の高弟・山上(やまのうえ) 宗二(そうじ)の秘伝書「山上宗二記」、信長の伝記「信長公記」など複数ある。この手紙も研究者には知られた存在で、蘭奢待に詳しい香道研究会（東京）の 松原睦代表は「文意がわからない部分もあるが、貴重な同時代の史料だ」と評価する。</p>
<p>店の近くにある線香などを作る工場を案内してもらった。表通りから離れた静かな町並みに、鉄筋６階建ての建物が立っていた。「匂いが外に漏れない よう、窓が少ないんですよ」と熊谷さん。最上階からは信長が明智光秀に討たれ、最期を遂げた本能寺の境内が見渡せた。現代の香りの中で、時の権力者と蘭奢 待がたどった歴史に改めて思いをはせた。</p>
<div class="date-def">（2011年12月9日  読売新聞）</div>
<p>(<a href="http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20111208-OYT8T01264.htm">蘭奢待切り取り寺の一大事 : 奈良 : 地域 : YOMIURI ONLINE（読売新聞）</a>から)</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/13975813461</link> 
    <pubDate>Fri, 09 Dec 2011 13:54:00 -0500</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>X-Force - Volume 1: Angels and Demons</title> 
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    <link>http://booklog.jp/users/mikanoff/archives/0785129766</link> 
    <pubDate>Fri, 09 Dec 2011 00:00:21 +0900</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>Uncanny X-Force: Deathlok Nation</title> 
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    <link>http://booklog.jp/users/mikanoff/archives/0785148566</link> 
    <pubDate>Tue, 29 Nov 2011 20:58:38 +0900</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>Secret Invasion: Runaways / Young Avengers</title> 
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    <link>http://booklog.jp/users/mikanoff/archives/078513266X</link> 
    <pubDate>Tue, 29 Nov 2011 20:58:10 +0900</pubDate>
   </item>
  <item>
    <title>滝寺で三好長慶を供養する武者行列の一行（三好市三野町で） 
長慶一行 三好練り歩く
住民ら　郷土の武将...</title> 
    <description>
    <![CDATA[
    <img src="http://28.media.tumblr.com/tumblr_lue7y1yx3E1qz86ubo1_500.jpg"/><br/><br/><p><small>滝寺で三好長慶を供養する武者行列の一行（三好市三野町で） </small></p>
<h4>長慶一行 三好練り歩く</h4>
<p><strong>住民ら　郷土の武将 雄姿再現</strong></p>
<p>郷土生まれの戦国武将の雄姿を再現する「三好長慶武者行列まつり」（読売新聞徳島支局など後援）が６日、三好市三野町で開かれた。地域の活性化につなげようと、地元住民らが今年初めて開催。町内外から大勢の人が訪れ、会場周辺は終日にぎわった。</p>
<p>武者行列には、三好長慶にふんした武川修士・同市副市長や地元の小学生、大阪府高槻市、香川県観音寺市の長慶会のメンバーら１３０人が参加。甲冑 (かっちゅう)を身にまとって出陣式を行った後、長慶の遺骨が分骨されていると言われる近くの滝寺まで、約１キロを練り歩き、供養を行った。小雨の降るあ いにくの天気だったが、見物の人たちは盛んにシャッターを切っていた。</p>
<p>会場の紅葉温泉駐車場では、地元の王子小の鼓笛隊演奏や獅子舞、阿波踊りも披露され、見物客が盛んに拍手を送っていた。池田町からきた主婦は「いろいろ楽しめました。来年もやって欲しいですね」と話しながら“武者”にカメラを向けていた。</p>
<p>（2011年11月7日  読売新聞）</p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/12554036322</link> 
    <pubDate>Wed, 09 Nov 2011 07:27:36 -0500</pubDate>
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    <title>よくわかるウサギの食事と栄養</title> 
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    <pubDate>Tue, 08 Nov 2011 17:45:20 +0900</pubDate>
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    <title>法楽寺境内から見つかった「親真」の銘が入った石造＝１日、福井県越前町織田文化歴史館
織田信長のルーツ、忌部氏か　越前町法楽寺に祖先...</title> 
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    <img src="http://26.media.tumblr.com/tumblr_lu9vg0hf1f1qz86ubo1_500.jpg"/><br/><br/><p><small>法楽寺境内から見つかった「親真」の銘が入った石造＝１日、福井県越前町織田文化歴史館</small></p>
<h1><span class="Heading"><span id="bt_title">織田信長のルーツ、忌部氏か　越前町法楽寺に祖先の墓</span></span></h1>
<p><span class="Date">（2011年11月2日午前9時25分）</span></p>
<p class="DetailText"><span id="bt_body"> 福井県越前町教育委員会は１日、同町織田（おた）の法楽寺境内で見つかった石造が、織田信長の十数 代前の祖先に当たる「親真（ちかざね）」の墓の一部であることが分かったと発表した。町教委の堀大介学芸員は「織田家発祥の地と言われる織田で信長の祖先 の墓が見つかったことは、未解明な部分が多い織田家のルーツ解明につながる重要な発見」としている。　（岩崎大樹）<br/><br/> 石造は鎌倉時代に墓 とされていた五輪塔の一部。半分ほどが崩れているが、１辺約２１センチ四方の立方体の形をしていたとみられる。左側面に「喪親真阿聖霊（あしょうりょう） 　正應三（１２９０）年庚刀（かのえとら）二月十九日未尅」と彫られており、「親真が正應３年２月１９日午後１～３時に亡くなった」（堀学芸員）ことが記 されている。<br/><br/> 町教委は▽「親真」の銘がある▽銘文の文字配置が鎌倉時代の石造の特徴と一致する▽死亡時刻まで詳細に彫ってある－などから、没年に建てられた親真の墓と判断した。裏面には「孝子　七月吉日」の銘があり、親真の子が７月に建てたと考えられる。<br/><br/> 織田家のルーツについては、１１８５年ごろ平清盛のひ孫として親真が生まれ、近江（滋賀）から織田の劔神社神主を務めていた忌部（いんべ）家に養子に入ったとする「平氏説」が有力視されている。<br/><br/> 堀学芸員は「親真が１２９０年に死んだことが学術的に判明した。１００年以上生きたことになる平氏説には限界がある」と指摘。「織田に親真の墓が建てられていたことから、親真は地元忌部家の直系実子とする『忌部説』が有力となった」としている。<br/><br/> また「系図に登場する人物の墓が見つかったことで、系図をもう一度検証する必要がある」と話している。<br/><br/> 石造は６日まで、越前町織田文化歴史館で公開している。</span></p>
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    <link>http://mikanoff.tumblr.com/post/12455716281</link> 
    <pubDate>Sun, 06 Nov 2011 23:07:00 -0500</pubDate>
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